2014年11月29日

日本の夜と霧

 今日(11月29日)の朝日beは「日本の夜と霧」(大島渚監督、1960年、松竹)でした。言わずと知れた「日本のヌーベルバーク映画」です。
 この欄で取りあげる作品の選択基準は、いったいどのようになっているのか、ふと、そんなことを思いました。

 大学に入ってすぐの「新入生歓迎会」の映画会が、この「日本の夜と霧」。
 ナチのホロコーストの「夜と霧」が頭の片隅にありましたから、
 「いゃだなあ、暗い映画は……」と思っていたら、全然違うではありませんか。

 「なんじゃ、これは! 言うところのトロツキストの映画か?」というのが第一印象でしたね。
 スターリン主義なども知らずに、パルタイ関係の末席にいたので、なかなか衝撃的でした。プロパガンダ映画ではなく、普通の商業映画にもかかわらず、こんなに直裁な政治映画など初体験の身にはなおさらです。
 最後のシーンではないかと思いますが、エンドマークに被さるように、パルタイ関係者の長演説が続きます。もちろん、誰も聞いていない、空しい長演説です。しかし、隣に座った友人(彼はブントに憧れていましたね)が、否定も肯定もせず「パルタイは揺るぎないことを表現している」とつぶやいたのが、印象的でした。

 朝日beは「この映画から学ぶことは多かったにもかかわらず、10年後、学生たちはもっと致命的な失敗を犯すことになる」など、と訳知り顔に締めくくっています。大島渚が京大生で京都府学連委員長を務めていたので、多分、連合赤軍などを指しているのかも知れませんが、件の新歓の主催者は自治会執行部を掌握していた革共同中核派でした。

 ちなみに、「トロツキスト学生」役が津川雅彦でした。今や「在特会」並の安倍応援団の一員で、嬉々として東條英機役を演じていますが、当時は日活から松竹に移籍してた「スター」?でしたか。
posted by 風游 at 12:06| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月22日

日劇《青鳥》/夏川結衣

 ユーチューブでとんでもないものを見つけてしまいました。「青い鳥」です。
 日?[劇=居に立刀という簡体字]《青?[鳥=これまた簡体字]》ですから、大陸系ですかね。
 http://www.youtube.com/watch?v=ZABQrnwVSVs

 このblogで「告白(笑)」したように、永島暎子に次いで、夏川結衣の「隠れファン」を自認していますが、彼女をはじめて知ったのが、この「青い鳥」(1997年、日テレ系で放映)でした。
 ついでと言っては何ですが、この時、永作博美も知りました。まぁ、余り売れなかったアイドルグループぐらいの知識しかありませんでしたが、独特の存在感を醸し出す、女優として再認識しました。そして、「不幸を身にまとっている永島暎子」に似ているなどと、ほざいています、2011年04月29日のブログ「8日目の蝉」では。

 夏川結衣の方は、全くの所見でしたが、ちょっと見た瞬間から、グーと惹きつけられましたね。
 でも、その後、結構売れっ子となり、「姉御肌で明るい性格」とか「横綱級の酒豪」などと言われているようですが、私にとっては今でも、前述したように「不幸が服着て歩いている」永島暎子の後継者です。
 もっとも、1992年のフジの『愛という名のもとに』(主演は鈴木保奈美、唐沢寿明)がデビュー作?。そして「青い鳥」の後には「死国」の明神比奈子役だそうです。さすが日浦莎代里役は栗山千明に譲っています。ちなみに永島暎子は「悪魔の手毬唄」とか「湯殿山麓呪い村」に出演しています。

 永作の方は、「八日目の蝉」ですが、なんと鈴木杏が2011年に公開された中上健次の『軽蔑』の主役を務めています。
 うーん、「青い鳥」にはまったのも、むべなるかな(笑)。
posted by 風游 at 18:57| 沖縄 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月03日

京都去りがたし1 通唄

 「丸竹夷二押御池、姉三六角蛸錦……」と、うろ覚えで、若い友人と地下鉄の中で暗唱するように口ずさんでいた。「四綾仏高松万五条」まで、なんとか辿りついた。「この後は、どうなんだろう」と言ったら、隣に座っていた上品な高齢の女性が「せったちゃらちゃらうおのたな、六条さんてつ(三哲?)通りすぎ、七条越えれば八、九条、十条東寺でとどめさす」と私たちに続けるように口すさんでくれた。雪駄屋町、鍵屋町、銭屋町、魚棚通……、鍵と銭を「ちゃらちゃら」とは。
 そして「一見さん」にもやさしい京都の「おもてなし」である。感心しきり、である。

 昔、六道珍皇寺を探していたら、松原通はかつての五条通である、と知った。そりゃそうだ、千年余も隔てれば、いくら京都でも変わって行くのは当たり前。とすると「丸竹夷二……」はどうなっているのだろうか。そんな疑問が湧いた。そして「一条は?」と。
 もう一つ、創建当時の平安京と較べるとやたら東に町並みが移動してしまっている。中心の朱雀門、朱雀大路はどうなっている、そんな疑問も浮かんだ。

 ということで、京都の「通(り)」である。

 さて平安京であるが、隋・唐の長安を真似て、平城京を踏襲し、山背(794年=お寺をナクシ=11月8日に山城と改名、21日に遷都)国に建設された東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城。北端中央(一条から二条、大宮大路から西大宮大路)に宮城=大内裏(その内部に内裏=御所、禁裏、大内など=と呼ばれた帝の私的空間がある)を設け、東西南北に大路・小路を配置した。
 この地は、風水に基づく四神相応(東=流水=鴨川=青龍、南=湖沼=巨椋池=朱雀、西=大道=山陰道=白虎、北=山地=船岡山=玄武)とも言われているが、どうやらこの説が定着したのは江戸期のようだ。もっとも青龍門・白虎門はともかく、南面中央の「朱雀門」に対して、北面中央に位置する「偉鑒門」は別名を玄武門とも呼ばれていたので、当時から「四神相応」が観念されていたのだろう。
 もちろんこの風水・四神相応は「陰陽五行説」(木火土金水)に基づいており、方位(東西南北)や色彩(青赤白黒)だけでなく、季節(春夏秋冬)にも対応している。四つしかない、という勿れ。「土」は「中央・黄」であり、各季に「土(用)」が配置されている。青龍・白虎などの霊獣で言うと「黄龍おうりゅう」もしくは「麒麟」となるそうな。
 
 ちなみに、「東」は「春はる」だが、ウチナーグチでは「東」は「アガリ」で、「西」は「イリ」、「北」が「ニシ」である。もちろん「東風吹かば……」の「東風」の「コチ」は「東風平こちんだ」などに残る。「南」は「ヘー(フェー)」、「南風」は「フェーカジ」とも「ハエ」とも、「南風原ハエバル」である。

 本来の平安京の北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅のやや南の九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたる。西限の西京極大路は推定するしかない。JR嵯峨野線花園駅や阪急京都線西京極駅を南北に結んだ線(概ね現在の葛野大路通付近だが、これは西京極大路の東隣の「無差小路」か)と言われている。
 もっとも、東へ発展してゆくのと併行して、平安時代後期になると、内裏が消滅した(朱雀門以北の旧大内裏の地域は「内野」と呼ばれた)こともあって、都域は北へ広がり、街路も北進した。これが朱雀大路の北進として今につながる、千本通である。鎌倉時代にはすでに「千本通」と呼ばれるようになっていた。

 内裏は平安期から火事などで焼失、さらに戦乱などによって荒廃したために、天皇外戚の邸宅などが仮皇居(里内裏)となり、院政期以降になると、平安宮内裏の有無に関わらず里内裏を皇居とする例が一般化したらしい。土御門東洞院内裏は、この里内裏の一つで、六条天皇と高倉天皇の里内裏を経て後白河上皇の所有となり、その後、承久の乱後紆余曲折を経て後深草天皇に譲られ、いわゆる持明院統の御所となり、足利幕府が擁立した光厳天皇(北朝初代)は土御門東洞院殿を改めて里内裏とした。これが現在の京都御所の元となった。現存する建物は幕末の1855年(安政2年)、平安様式に倣って再建されたもので安政内裏とも呼ばれた。

 なお通唄が、丸太町通から始まっているのは、現在の京都御所(内裏)の南面に面しているのが丸太町通であることに依っているのではないか。ある意味で丸太町がかつての二条大路に当たっている。とすれば御所北面の通りが今出川通りで一条大路に擬せられる(と勝手に思っている)。

 Wikipediaによれば、10世紀初期の『延喜式』においては、朱雀大路を除く他の大路が8丈(約24m)、小路は4丈(約12m)と決められていた。そして固有の街路名は「朱雀大路」が見えるだけで、外周を「東極大路」、「南極大路」などと示しているのみであるという。通り(大路小路)が固有の名称を持つ時期は定かではなく、自然発生的に生じたと考えられるが、10世紀後半には、町尻小路・町口小路、室町小路、油小路、具足小路(錦小路)、綾小路、塩小路などの名称が用いられ、とある。そして戦国時代末期には、現在使われる「〜通り(とおり)」という表現で呼ばれるようになり、現在にも伝わる新しい名称が多く生まれ、近世に掛けて定着していった。また、この時期、京都の町割に大きな変更を行ったのが、太閤秀吉である。御土居を築造し、寺町通・室町通間及び堀川通以西で半町ごとに新しい街路を南北に通す、いわゆる天正の地割を行った。

 しかし、平安京の「通」は、なんと言っても南北(子午線)に貫く「朱雀大路」である。宮城たる大内裏の正門として朱雀門があり、朱雀大路の南端、すなわち九条通との交差点が羅城門である。約4キロメートルの直線で、道幅はなんと幅28丈(約85メートル)もあったそうな。

 ということで「京都町歩き」は「京通唄プロローグ」として、朱雀大路から(笑)。

京都の通り歌【初音ミク】
http://www.youtube.com/watch?v=cYdB3iFBFic&feature=related

京都・東西の通り名の歌「 丸竹夷二…… 」 
http://blogs.yahoo.co.jp/masatake_ko/GALLERY/show_image.html?id=46427639&no=2





posted by 風游 at 20:44| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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