2015年03月28日

菅原文太「本来の反知性主義」

 朝日20150326高橋源一郎の「論壇時評」。
 菅原文太である。鮮烈な「仲井真さん、弾丸は後一発残ってるでよ」というセリフを残して逝った男である。新宿のオールナイトで「仁義なき戦い」全四作をぶっ続けで見た。高倉健と比べるとその「認知度」は、はるかに低い。しかし文太である。高橋は「本来の反知性主義」という言葉と絡めて菅原文太を称揚した。タイトルは<健全な「まだ知らない」>である。
 なぜ、この高橋源一郎の文太評がこれほどまでに深く私がこだわったのかと言えば、先年亡くなった「畏友」について、勃然と思い出したからである。

 娘の大学選びに奔走していた彼を、私は揶揄してしまった。そう、「娘」の、「大学」「選び」にそんなにも拘泥する彼が、何故か不思議だった。しかし、彼からは「俺は反知性主義ではない!」と、唾棄するが如く吐かれた反論が返ってきた。

 私は彼を尊敬している、否、あれほどの卓越した「存在」(知性だけではない、その行動力も含め、適当な言葉が見あたらないが「彼に心酔した」)を私は知らない。数十年にわたって濃密な人間関係を創り上げてきたが、だが、その時彼に微かな「違和感」を抱かなかったと言えばウソになる。「知性」なるものの話題とは一切無縁と思われる現総理大臣が登場する以前の話だったが。

 そう、彼は「反知性主義」ではなかったが、しかし「本来の反知性主義」でもなかったのではないか、との疑念が頭をよぎった。
 彼と、「菅原文太」について語り合いたかった。もちろん、「知性主義」者の彼は「仁義なき戦い」などは見ていなかったろうが・・・・・・。



posted by 風游 at 01:28| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月25日

水木洋子『浮雲』

 ちょっと前(20日?)の朝日新聞 be「映画の旅人」は成瀬巳喜男「浮雲」。
 どうも優等生女優のイメージがつきまとってしまう高峰秀子ですが、森雅之とのどうしようもない男と女のあてどない道行きは、情けなくも哀れを催してしまいました。「なんでこんな男に!」なんていう感懐は林芙美子の独壇場でしょう。もちろん、高峰・森の名演技をくさすつもりはさらさらありません。
 「私は林さんほど男には絶望していない」という脚本家の水木洋子が、不実な男が女の死に向き合い号泣する場面をラストシーンとしてこだわり、成瀬巳喜男を押し切った、というエピソードが語られていました。しかし、号泣していた男が、原作同様、女の死の一か月後には再び女遊びに手を染めることもある、と思いました。そう、映画を見た時にも、この男はこれからどう生きてゆくのかと不安(笑)になったものです。ですから、水木さん、貴女の想いと、やはり林芙美子とは生きてきた世界が違うようです。

 それと屋久島です。あんな風に書かれたら、屋久島の人達は怒り出さないか、とも思いました。もう二人は「逃避行」ではないのにもかかわらず、「逃避行」としてしか屋久島へはたどり着けないのですから、踏んだり蹴ったりではないですか。ゆき子の終焉の地です。

 be で絶賛されたセットの伊香保温泉ですが、映画「浮雲」では、あの石畳階段で伊香保温泉とわかりましたが、単に鄙びた温泉街でしかなかったように記憶しています。
 私にとって、父親の伊香保温泉への社員旅行に連れて行って貰ったときの印象が強く残っています。左右に温泉宿が建ち並ぶ石の階段(そこでの射的屋!スマートボール!)は、華やぎとともに、子ども心にも哀愁を感じさせました。そして、翌朝、部屋のベランダ?から見た雲海の素晴らしかったこと。

 水木洋子は、今井正とのコンビでの「また逢う日まで」、「ひめゆりの塔」。そして極めつけは「純愛物語」です。そう、彼女は健康なのです。だから、今でも江原真二郎・中原ひとみが目に焼き付いている「純愛物語」が書けたのでしょう。子ども心に、「純愛物語」のラストシーンで、私は号泣してしまいました。
 「ひめゆりの塔」(1953年)と言えば、翌54年からは「新諸国物語・笛吹童子」が始まります。そう「純愛物語」も東映です。二本立て・こども40円?でしたか。毎週のように、日曜日の午前中は「映画館」でした。

posted by 風游 at 19:08| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月21日

マリリン・モンロー「七年目の浮気」

 ビリー・ワイルダーに注目している(多分、三谷幸喜つながりだろうとは思いますが)が、この映画についてはやや点が辛い若い友人に対して、私は絶賛してしまいましたね。
 いゃー何がと言って、モンローの素晴らしい事! 可愛らしく、賢く、かつ貞淑でもあり、もちろん艶っぽく、肉感的。ワイルダーも意識的に衣裳をとっかえひっかえして、様々なアングルで、時折アップを混ぜて、彼女の表情を豊かに映し出していました。
 彼女が「世界の恋人」などと称賛されていたのもむべなるかな、と思いました。

 古い友人は、バークマンと並んでモンローを評価し、中でも「帰らざる河」を一押ししてました。
 今まで「食わず嫌い」だったモンローですが、改めて(両作とも初見でしたが・・・・・・いや、ものごころ着く前に観ていたかも知れませんが)今、較べて観ると、「七年目の浮気」の方が私の中では数段上でした。
 かの有名な「地下鉄からの風」の場面が、あっさりしすぎていたのが、やや残念(ディマジオよ!余計なことをするな!)。それにタイトルが、なんともミステークです。もちろん「ITCH」が俗語で「浮気」をさすのかも知れませんが、それでも、あざとい・・・

 モンローの魅力を堪能するための映画でした。


posted by 風游 at 22:17| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月16日

京都去りがたし4 朱雀門・宮城十二門(禁門十四門)


 さて、朱雀門を概観。

 宮城正門とも言える朱雀門は、永祚元(989)年に転倒、承元2(1208)年に火災にあい、そして翌年にまた転倒(土台の上に乗せていただけだそうだから致し方なし、というところか)し、安貞元(1227)年に焼滅して以来再建されることはなかった(もっとも内裏そのものが再建されず、「里内裏」を転々とし1331年から土御門東洞院殿が「内裏」化した)。「主上御謀反」と言われた承久の乱が1221年である。

 この朱雀門も、平安京の表玄関たる羅城門(羅生門)のように朽ち果ててはいなかったとは言え、大内裏の表門にもかかわらず、『今昔物語』の「名笛・葉二つ」で語られるように、かなり早い時期に「鬼の栖」であった。この説話の主人公・源博雅は、夢枕獏の小説『陰陽師』で、三つ年上の安倍晴明のパートナーとして登場することで知られた。彼は、また、『百人一首』(「これやこの 行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関」)で名高い蝉丸法師に逢坂の庵を三年間通いつめ、琵琶を伝授されるなどの今昔物語では有名人。
 他方、羅城門はすでに弘仁7(816)年、台風で倒壊、天元3(980)年に再び倒壊し、以後再建されることはなかった。東寺、西寺はいざ知らず、それ以前も羅城門あたりは人家も乏しく、芥川龍之介の『羅生門』を持ち出すまでもなく、荒廃にまかせていたのだろう。こちらにも、源博雅の「琵琶・玄象」伝説がある。
 この朱雀門と羅城門に加えて、大内裏内・朝堂院(八省院。大極殿がある)の出入り口である応天門の三つを「三大門」という。もっとも応天門は、866年(貞観8年)の「応天門の変」(藤原氏による名族=大伴氏の排斥)での放火事件が有名。1177年(治承元年)の大火で失われて以降、再建されなくなった。

 朱雀門はその華麗な名称、羅城門は芥川龍之介によるところが大きいがそのおどろおどろしげな名称で名高いが、応天門は「応天門の変」で知られているだけである。これらは「跡」として残っている(応天門は「跡碑」はないとのこと)が、当然の事ながら、内裏の入口である建礼門は、跡も定かではない。もっとも、里内裏=現在の京都御所には南面正門として「建礼門」がちゃんとある。ちなみに「応天門」のレプリカがある平安神宮は1985年(明治28年)に「平安建都1100年記念事業」として創建された神社であるが、1976年に「世界赤軍日本人部隊・闇の土蜘蛛」(後に犯行声明が出される)による放火によって焼失(三年後再建)。声明文には「桓武朝廷軍による蝦夷征伐を継承する天皇制日本帝国に対して宣戦布告する」旨が記されていたという。

 大内裏は一条と二条の間に位置しており、東西路の二条通に朱雀門は面し、ここからまっすぐ南に朱雀大路が延びていた。今は二条通が二条城によって寸断されているので、わかりにくいが、「千本通」と「御池通」の交差点脇に「朱雀門跡」の小さな石碑が建つのみである。JR二条駅前を北に出て行ったところ。千本通(朱雀大路)を北に上れば、旧二条通あたりに応天門(「跡」はない)が、さらに丸太町通との交差点北側が大極殿跡らしい。
 北面中央の「玄武門」は、現在の京都御所(今出川通り)の北面の町名が「玄武町」としてその面影を?を残しているが、本来の「偉鑒門」=「玄武門」は影も形も無い。

 さて朱雀門である。
 構造は重層、入母屋造,棟両端に金色の鴟尾付の瓦葺、規模は正面七間五戸で、幅約35メートル、奥行約9メートル、高さ約21メートル。木部は朱塗り,壁は白土塗り。内外との出入りは,幅約24メートル五段組の石階段という威容を誇ると推定されている。羅城門も朱雀門と同形、同規模の姉妹門と推定-wikipedia。

 「宮城十二門」は、半村良によって識った。言わずと知れた『妖星伝』。
 四神相応の「朱雀門」などの大内裏門が、「陽明門」も含む「十二門」として、それぞれ「鬼道衆」に配当され、「東面・陽明門」の「日天」を頭領として統率されている。そして、これらが薬師如来・眷属の十二神将に対応し、宮毘羅の日天、因陀羅の信三郎と、そして艶っぽく「南面・朱雀門・頞尼羅」のお幾など、心底はまりました。
 実際には十二門ではなく、北部東西にある「上西門」「上東門」も含め「禁門十四門」(一般に「平安宮外郭門」)である。弘仁9(818)年に「殿門改号」により、現在の呼び名である中国風の門号へと改められた。「上東門」「上西門」は、物資運搬などに使う通用門として作られ、築地を切り拓いただけの、屋根もない単なる土門で、「土御門」「西土御門」とも呼ぶ。この門を通り東西に延びるのが土御門大路で、東側(左京)は有力貴族の邸宅が多くあったため、宮城の入退出に多くの公卿が利用したといわれている。

                                 十二神将       本地仏   干支
東面 「陽明門」(山部門/山門。近衛御門)    毘羅クビラ    弥勒菩薩   子
    「待賢門」(健部門。中御門)           伐折羅バサラ  勢至菩薩   丑
    「郁芳門」(的門いくはもん。大炊御門/大炊門) 迷企羅メギラ 阿弥陀如来 寅
南面 「美福門」(壬生御門/壬生門)         安底羅アンチラ 観音菩薩 卯
   「朱雀門」(旧門号:大伴門)              頞儞羅アジラ   如意輪観音 辰
   「皇嘉門」(若犬養門。雅楽寮御門)       珊底羅サンチラ 虚空蔵菩薩  巳
西面 「談天門」(玉手門。馬寮御門)         因陀羅インダラ 地蔵菩薩   午
   「藻壁門」(佐伯門。西中御門とも)        波夷羅ハイラ  文殊菩薩    未
   「殷富門」(伊福部門。西近衛御門とも)      摩虎羅マゴラ  大威徳明王  申
   「上西門」
北面 「安嘉門」(海犬養門。兵庫寮(司)御門とも)真達羅シンダラ 普賢菩薩  酉
   「偉鑒門」(猪使/猪養門。玄武門とも)     招杜羅チトラ   大日如来   戌
   「達智門」(丹治比門・丹比門とも)         毘羯羅ビガラ  釈迦如来  亥
   「上東門(土御門)」

 いやいや、これにとどまらない。真達羅は仏教に採用されて護法神の帝釈天になり、ガンジス河に住む鰐魚・魚神で、蛇形をして尾に宝玉をおさめるといわれる金毘羅は、金毘羅大将とか金毘羅童子とよばれ、『大般若経』を守護する般若十六善神の一つとして、仏法の守護神となったという。「♪コンピラ舟舟〜」である。

 「宮城(禁門)十二門」「外郭十四門」については、女院号も忘れてはなるまい。もちろん「門院号」に限れば、「朱雀門」「偉鑒門」の二門は該当者なし。
 女院号の初例は上東門院で、始めは外郭十四門に限られたが、1169年にの建春門院以降は宮門その他の門名なども取り入れられたとある。ちなみに、建春門院平滋子(1142 - 1176)は平時信(清盛の舅)の娘で清盛妻の時子の異母姉である。後白河の譲位後の妃で高倉天皇の母、1169年に宣下。次いで建礼門院平徳子(1155 - 1214)は清盛の娘で高倉天皇中宮、安徳天皇母1182年に宣下。
 「禁門十二門」に戻れば、白川法皇の寵愛を受け、その養女として鳥羽天皇の中宮となり、崇徳・後白河両天皇の母となった藤原璋子(1101 - 1145)は、1124年に「待賢門院」院号宣下された。しかし、中宮璋子に代わって鳥羽天皇の寵愛を受けた藤原得子(1117 - 1160)は、近衛天皇の母となり、1149年に「美福門院」を宣下された。

 大河ドラマ「平清盛」での白河上皇=伊東四朗と、鳥羽上皇=三上博史、待賢門院璋子=檀れい、そして美福門院得子=松雪泰子などのドロドロは保元・平治の乱に限らず、稗史絶好の話題! なにしろ鳥羽上皇は、白河法皇によって璋子の生んだ(父親は白河!)崇徳天皇即位のために退位させられたが、美福門院との間に近衛天皇が出来れば、今度は崇徳を退位させ、たった三歳の近衛を即位させた。近衛は夭折したが、待賢門院との子・後白河と、先の崇徳(父はともかく母は同じ待賢門院!)との皇位継承争いから保元の乱は始まる。もっとも待賢門院璋子は保元の乱を見ることなく死去。

<京都観光案内>平安京・朱雀門
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=6000030

<平城宮跡資料館>復元された平城京の朱雀門
http://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/page/suzaku.html


posted by 風游 at 01:31| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月10日

八重洋一郎詩集『沖縄料理考』

 発行所は上間常道さんの出版舎Mugen。
 詩はわからん。詩人も苦手。一行抜き書きなどしたら詩人は激怒するか?

   チラガー
     人間の面皮チラガーはおよそ食べられない

   花酒
     一口舐めればピリリッピリリッ全身つらぬく液体剣

   百雨
     註 アミヌミヤー 与那国方言で虹のこと 雨を飲むものの意

   霞
     わが生涯 最高のあこがれ
     かすみを食っていきること そして

   平和
     彼らは平和は食べられるかといつも言う
     そして いつも平和を食べているのだ




posted by 風游 at 23:04| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月02日

京極夏彦『オジいサン』

 うーん、こんな小説に手を染めているのか。
 『百鬼夜行』も「定本」と銘打って『陽』『陰』二冊が文庫化された。江戸怪談三部作も『数えずの井戸』は失敗作だったとしか言いようがない。伊右衛門も小平次も「くどさ」が話の結構を支えていたが、薄く浅くなってしまっては又市も精彩を欠く。
 そして<牛の涎のように>書かれても、閉口する。そうか!自然主義文学か!京極流心理描写も、それだけでは残念ながら、読むに耐えない!『陰』『陽』同様、とばし読みしてしまった(京極本の読み方としては全く間違っているのだが!)。

 還暦はまだまだ現役だ!というのはその通りであり(かつての55才定年制とは、ほぼ平均寿命であったらこその「終身雇用制」だった!)、はたして70歳でも、「オジイサン」でも「おじいさん」でもない、と豪語する人達が増えてはいるだろう。そこで、京極夏彦である。有川浩を凌駕する「疑似(似而非)老人小説」を期待したのだが・・・・・残念!

 京極堂シリーズ『鵺の碑』が待たれる!

posted by 風游 at 00:37| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。