2014年12月11日

京都去りがたし2 内裏−御所

 “「京都町歩き」は朱雀大路から”などとつぶやいていたが、やはりここは平安京−御所をまず概観しよう。

 大内裏は南北で言えば一条[現在の一条通。京都御苑・京都御所に分断されている路地]から二条[現在の二条通。これまた二条城で分断されている路地]、東西で言えば大宮大路[現在四条以北は二条城で分断された路地]から西大宮大路[路地のような御前通に取って代わられ、大路名消失]に囲まれた場所であった。東西約1.2Km、南北約1.4Km
 一方、内裏は下記↓の地図を見て貰えばわかるように、大内裏の中央東よりの紫宸殿を中心とする内邸部分で、南北約303m、東西約220mの広さ(まぁねおよそ2万坪ですか)。

 1227年(安貞元年)に宮城(大内裏)が焼失してからは内裏は再建されず、里内裏を転々とした。
 里内裏の「里」とは平安京の里坊のことで、「京内に置かれた内裏」という意味である。里とは嫁の実家ではない(笑)。しかし天皇退位後の在所とすることを主な目的として設けられた離宮である後院が仮皇居として用いられたが上皇在所として既に用いられている場合などには、天皇外戚の邸宅などが仮皇居となり、これを里内裏と称した。(とすると「嫁の実家」も当たらずと雖も遠からず、か)
 摂関期にはまだ平安宮内裏が本来の皇居であると認識されており、平安宮内裏が健在であるのに里内裏を皇居とする例はほとんど無かったが、院政期以降になると、平安宮内裏の有無に関わらず里内裏を皇居とする例が一般化したという。

 Wikipediaによれば斯くのごとし。794年(延暦13年=50桓武)平安京を定める。960年(天徳4年=62村上天皇)に内裏焼失、再建されるまで冷泉院を仮の皇居とした。976年(貞元元年=64円融天皇)に内裏が被災し、藤原兼通の邸宅である堀河殿を仮皇居とした。73堀河天皇(1086年11月26日- 1107年7月19日)京都御所となる土御門東洞院殿を即位前に御所としていたことが知られている。1167年(仁安2年=79六条天皇)から短期間、土御門東洞院殿を里内裏として用いる。1177年(安元3年=80高倉天皇)から短期間、土御門東洞院殿を里内裏として用いる。1227年(安貞元年=86後堀河天皇)に大内裏が焼失。内裏は再建されず、里内裏を転々とした。

 さて、内裏として定められた「里内裏」=土御門東洞院殿は、平安京左京北辺四坊二町に所在し(土御門北、東洞院東、正親町南、高倉西)、1町四方の元の屋敷?は権大納言藤原邦綱の邸宅で、その後六条天皇と高倉天皇の里内裏を経て後白河上皇の所有となり、紆余曲折を経て後深草天皇に譲られ、以後は持明院統の治天の君の御所として相伝された。
 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が都を脱出して笠置山に立て籠ると、光厳天皇は土御門東洞院殿を改めて里内裏とした。応永8年(1401年)の火災焼失の後、足利義満が土御門東洞院殿が狭小で「人臣の家」と大差が無いことを問題視して平安宮内裏を模した本格的な内裏の機能を持つ土御門東洞院里内裏を再建した。また安土桃山時代には織田信長と豊臣秀吉によっても整備が施され、関白秀吉によって、天正15年(1588年)までに土御門東洞院殿の陣中(大内裏の区域に見立てて「陣中」と称す)への公家衆屋敷地の総移転(公家町の形成)が実施され、現在の京都御苑の原型がほぼ形成された。さらに江戸時代には慶長(1613年)、寛永、承応、寛文、延宝、宝永(1709年)、寛政(1790年)、安政(1855年)と8回も再建されており、このうち慶長と寛永は旧殿を取り壊しての建て替え、それ以外は火災焼失による再建。以後明治2年(1869年)の東京遷都まで27代の天皇の御所となった。明治維新の東京行幸により、天皇が東京の皇居(旧江戸城)に移ったため、1877年(明治10年)保存され、京都皇宮とも称される、とある。
 現存の内裏は幕末の1855年(安政2年)に平安様式に倣って再建されたもので、安政内裏と呼ばれている。
 ちなみに南朝と呼ばれる事になる大覚寺統の天皇の御所は二条富小路内裏であった。

 さあ、これで朱雀大路に。

平安宮大内裏復元図
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heian/heian02.html
http://homepage1.nifty.com/shiun-sai/sub5_04.html

平安宮内裏復元図
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heian/heian01.html
posted by 風游 at 21:45| 沖縄 ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | 京都 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
吉田孝『日本の誕生』を読んでいたら、紫宸殿の「左近の桜、右近の橘」について触れてあった。
なんと、始めは「桜」でなく、「梅」だったそうな。

「ウメは中国原産で。中国文化の摂取の過程で日本にもたらされた」とある。『万葉集』では、サクラ44首に対して、ウメ118首。ちなみに『古今集』では、ウメ29首に対しサクラ53首だそうな。

件の「左近の桜」に植え替えられたのは、9世紀後半で、遣唐使廃止(894年)以前ではあるらしい。

植物に疎い風游子としては、ここで強引に唐風文化から国風文化を論じる気はないが、「武士道」や「大和魂」などに論じられるサクラも、こんなものか、と思う次第。


Posted by 風游 at 2015年10月22日 19:41
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