2015年01月21日

京都去りがたし3 朱雀大路

 さあ、朱雀大路である。

 平安京の造営はまず宮城(大内裏)から始められ、どこからでも見えるように巨大な大極殿を作り、朱雀門から九条の羅生門まで、街の中心に南北の幹線道路=朱雀大路を通し、両側を柳並木とした。
 平安京−坊条制の道路は、10丈(約30メートル。東西路で言えば、大内裏から発する大路)と8丈(約24メートル)までの5種類の幅を持つ大路と、幅4丈(約12メートル)の小路により、40丈(約120メートル)四方に区画されていた。東西路をみれば、一条大路は幅10丈だが、二条大路は幅17丈で九条大路は幅12丈となっている。しかし、南北路でメインストリートとでも言うべき朱雀大路だけは特別に幅28丈(約85メートル)だったそうな。

◎平安京条坊復元図
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heian/heian03.html

 平城奠都1300年を記念して「朱雀門」が復元されたが、映画『陰陽師』では、それを平安京の朱雀門・朱雀大路として借用したらしい。やけにだだっ広い道を安倍晴明役の野村萬斎と源博雅役の伊藤英明が歩いて行くシーンで「そうなんだ、朱雀大路はこんなに広いのだ!」と時代考証に感心したのを憶えている。

 ちなみに、江戸時代に整備された五街道のうち東海道などは幅5間(約9メートル)しかなく、馬車(戦車:軍用道路も含め)の未発達ゆえに、幹線道路と言えども、平安京の小路よりも狭かった。もっとも平安時代の道路幅は、隋唐のマネであり、「外国の賓客に見せるためのデモンストレーションだった」とする見方もある。

 朱雀大路は何度も述べているように右京衰退によって、都の西のはずれの道になり、大内裏の焼失によって二条通以北の本来、大内裏のあるべきところ(「内野」)を突っ切るように、千本通として北へも延びている。とすれば一条通との交差点あたりが「偉鑒門」(玄武門)か。一応、「大極殿跡」は、朱雀門跡から500メートルほど北(千本通丸太町上ル、か)にある。
 もちろん、「通唄」でこれから順に散策しようと思っている「通り名」は、後世付けられたもので、平安京建設当時は、この朱雀大路と東西端の西京極大路・東京極大路以外は規則的な名称だったということである。
 内裏も転々とし、やっと現在の京都御所の場所(土御門東洞院殿)に落ち着いたと思ったら、南北朝から室町時代を経て応仁の乱以後の戦国時代に突入。豊臣政権による天下統一で、京都−内裏再建の運びとなり、併せて都市改造により、例えば「御土居」を構築し、洛中・洛外を区別したり、散在していた寺院を集め、「寺町通」としたり、既存の街路と街路の間に新たな「通」を開いたり(短冊形の町割り)した。この時に呼び名が変わった街路も多く、「大路」「小路」から「通り」に変わったのもこの頃らしい。

 南北に注目すると、運河(?)とも呼べる人口河川が、堀川小路(堀川)と西堀川小路(西堀川)に並行して流れていた。これは、左京・右京に置かれた二つの市(東市、西市)のためかとも思われる。物流という観点では河川は道路よりも重要であったろう。
 東寺、西寺もそうだが、中華帝国由来の都市計画としてのシンメトリーは、多分好みが分かれるところだろうが、やはり「美しい」。

 右京の地は桂川の形作る湿地帯にあたるため9世紀に入っても宅地化が進まず、平安京創建時から右京地区は整備が進んでおらず寂れたというより放置されたに近い。律令制がほとんど形骸化した10世紀には荒廃して本来京内では禁じられている農地へと転用され、荘園化した。一方、貴族の住む宅地は大内裏に近い右京北部を除いて左京に多く設けられ、さらに東へ東へと発展し、とうとう鴨川を越え市街地が広がった。内裏ですらそうである。白河殿、平家政権の六波羅も鴨東地区である。
 そして京都の南北路の中心は、京都駅開業に対応して、1.5キロメートルほど東の烏丸通に移動した。もっとも道路の広さで言えば堀川通か? 西(端)は西大路通(かつての「野寺小路」か)に、東(端)は鴨川を超えて東大路通に。

 朱雀大路でなく、北へ延びた千本通についてみれば、旧朱雀門を通り抜け、中央官庁たる「朝堂院」の入り口=「応天門」をくぐれば、大極殿がそびえている、という趣向。その北東、つまり右手後ろに「内裏」の「建礼門」がある。千本通は、内裏(内野)を突き抜け「偉鑒門」の北に位置したであろう船岡山(「朱雀大路は船岡山が正面に来るように決められたとも言われる」wikipedia)の西側をやや斜めに北上する。このあたりは、鳥辺山や化野とならぶ葬送の地・紫野−蓮台野であり、鎌倉時代にこの葬送地への道に千本の卒塔婆を建て供養したのが地名の起こりとも言われている。
 手前に千本釈迦堂(大報恩寺。本堂の釈迦堂は国宝)、千本ゑんま堂(引接寺。ここは「縁起」として小野篁があげられているが、また、南北朝時代に建立されたとする紫式部の供養塔もある)があり、その間の東側に釘抜地蔵として有名な石像寺(これまた弘法大師創建とな)がある。さらに七本通一条から移されたとされる蜘蛛塚(源頼光塚。もっともこれは北野天満宮内の観音寺にも)が上品蓮台寺(こちらは聖徳太子開基だ)境内にある。内裏なきあとの朱雀大路の北側は興味深い。

 蓮台野と言えば、吉川英治『宮本武蔵』での吉岡清十郎との決闘の地ではなかったか。井上雄彦『バガボンド』には驚かされたが、映画化やドラマ化は配役さえ間違えなければ、「原作がしっかりしているので面白い」とよく言われるが、井上雄彦のコミック化も破天荒だがそのようだ。

 千本通は光悦寺で名高い鷹峯にまで至っている。光悦寺もさることながら「吉野太夫の墓」に惹かれて、光悦寺から2、300メートル東の常照寺を訪れたことがある。
 大河ドラマの海老蔵武蔵があまりにも酷かったし、米倉涼子の「お通」もミスキャスト。それにしても、小泉今日子=吉野太夫は辛かった。もっとも、この吉野太夫の墓は二代目。武蔵とのエピソードに登場する吉野太夫は初代だそうな。錦之助武蔵の時の岩崎加根子は名脇役である。
https://www.youtube.com/watch?v=DorKrWWbD6c#t=477

一路一会>古い町並みと集落・古都>京都>別冊・京都の路と町家>千本通せんぼんどおり
http://www.ichiro-ichie.com/05koto/kyoto2/02south-noth/a37senbon-dori/senbon-dori01.html

posted by 風游 at 00:26| 沖縄 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 京都 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 脇田修・脇田晴子『物語 京都の歴史』2008を読んでいたら、大内裏の北側が「北野」(まぁ、これは当たり前だが)で、荒廃した大内裏内が「内野」と呼ばれたそうな。
 この内野に勝手に南北路・東西路が貫いた。朱雀大路が「千本通」として内野から北野へ延びていった。

 北野は元々、葬送の地(鳥辺山や化野と同様。当時は風葬)で、千本閻魔堂の開基といわれる定覚(恵心僧都源信の弟子)がこの地で蓮華が化生したので蓮台野と名付けたと『野守鏡』(鎌倉末期)にある、と言う。




Posted by 風游 at 2015年04月06日 20:13
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