2015年03月16日

京都去りがたし4 朱雀門・宮城十二門(禁門十四門)


 さて、朱雀門を概観。

 宮城正門とも言える朱雀門は、永祚元(989)年に転倒、承元2(1208)年に火災にあい、そして翌年にまた転倒(土台の上に乗せていただけだそうだから致し方なし、というところか)し、安貞元(1227)年に焼滅して以来再建されることはなかった(もっとも内裏そのものが再建されず、「里内裏」を転々とし1331年から土御門東洞院殿が「内裏」化した)。「主上御謀反」と言われた承久の乱が1221年である。

 この朱雀門も、平安京の表玄関たる羅城門(羅生門)のように朽ち果ててはいなかったとは言え、大内裏の表門にもかかわらず、『今昔物語』の「名笛・葉二つ」で語られるように、かなり早い時期に「鬼の栖」であった。この説話の主人公・源博雅は、夢枕獏の小説『陰陽師』で、三つ年上の安倍晴明のパートナーとして登場することで知られた。彼は、また、『百人一首』(「これやこの 行くも帰るも分かれては 知るも知らぬも逢坂の関」)で名高い蝉丸法師に逢坂の庵を三年間通いつめ、琵琶を伝授されるなどの今昔物語では有名人。
 他方、羅城門はすでに弘仁7(816)年、台風で倒壊、天元3(980)年に再び倒壊し、以後再建されることはなかった。東寺、西寺はいざ知らず、それ以前も羅城門あたりは人家も乏しく、芥川龍之介の『羅生門』を持ち出すまでもなく、荒廃にまかせていたのだろう。こちらにも、源博雅の「琵琶・玄象」伝説がある。
 この朱雀門と羅城門に加えて、大内裏内・朝堂院(八省院。大極殿がある)の出入り口である応天門の三つを「三大門」という。もっとも応天門は、866年(貞観8年)の「応天門の変」(藤原氏による名族=大伴氏の排斥)での放火事件が有名。1177年(治承元年)の大火で失われて以降、再建されなくなった。

 朱雀門はその華麗な名称、羅城門は芥川龍之介によるところが大きいがそのおどろおどろしげな名称で名高いが、応天門は「応天門の変」で知られているだけである。これらは「跡」として残っている(応天門は「跡碑」はないとのこと)が、当然の事ながら、内裏の入口である建礼門は、跡も定かではない。もっとも、里内裏=現在の京都御所には南面正門として「建礼門」がちゃんとある。ちなみに「応天門」のレプリカがある平安神宮は1985年(明治28年)に「平安建都1100年記念事業」として創建された神社であるが、1976年に「世界赤軍日本人部隊・闇の土蜘蛛」(後に犯行声明が出される)による放火によって焼失(三年後再建)。声明文には「桓武朝廷軍による蝦夷征伐を継承する天皇制日本帝国に対して宣戦布告する」旨が記されていたという。

 大内裏は一条と二条の間に位置しており、東西路の二条通に朱雀門は面し、ここからまっすぐ南に朱雀大路が延びていた。今は二条通が二条城によって寸断されているので、わかりにくいが、「千本通」と「御池通」の交差点脇に「朱雀門跡」の小さな石碑が建つのみである。JR二条駅前を北に出て行ったところ。千本通(朱雀大路)を北に上れば、旧二条通あたりに応天門(「跡」はない)が、さらに丸太町通との交差点北側が大極殿跡らしい。
 北面中央の「玄武門」は、現在の京都御所(今出川通り)の北面の町名が「玄武町」としてその面影を?を残しているが、本来の「偉鑒門」=「玄武門」は影も形も無い。

 さて朱雀門である。
 構造は重層、入母屋造,棟両端に金色の鴟尾付の瓦葺、規模は正面七間五戸で、幅約35メートル、奥行約9メートル、高さ約21メートル。木部は朱塗り,壁は白土塗り。内外との出入りは,幅約24メートル五段組の石階段という威容を誇ると推定されている。羅城門も朱雀門と同形、同規模の姉妹門と推定-wikipedia。

 「宮城十二門」は、半村良によって識った。言わずと知れた『妖星伝』。
 四神相応の「朱雀門」などの大内裏門が、「陽明門」も含む「十二門」として、それぞれ「鬼道衆」に配当され、「東面・陽明門」の「日天」を頭領として統率されている。そして、これらが薬師如来・眷属の十二神将に対応し、宮毘羅の日天、因陀羅の信三郎と、そして艶っぽく「南面・朱雀門・頞尼羅」のお幾など、心底はまりました。
 実際には十二門ではなく、北部東西にある「上西門」「上東門」も含め「禁門十四門」(一般に「平安宮外郭門」)である。弘仁9(818)年に「殿門改号」により、現在の呼び名である中国風の門号へと改められた。「上東門」「上西門」は、物資運搬などに使う通用門として作られ、築地を切り拓いただけの、屋根もない単なる土門で、「土御門」「西土御門」とも呼ぶ。この門を通り東西に延びるのが土御門大路で、東側(左京)は有力貴族の邸宅が多くあったため、宮城の入退出に多くの公卿が利用したといわれている。

                                 十二神将       本地仏   干支
東面 「陽明門」(山部門/山門。近衛御門)    毘羅クビラ    弥勒菩薩   子
    「待賢門」(健部門。中御門)           伐折羅バサラ  勢至菩薩   丑
    「郁芳門」(的門いくはもん。大炊御門/大炊門) 迷企羅メギラ 阿弥陀如来 寅
南面 「美福門」(壬生御門/壬生門)         安底羅アンチラ 観音菩薩 卯
   「朱雀門」(旧門号:大伴門)              頞儞羅アジラ   如意輪観音 辰
   「皇嘉門」(若犬養門。雅楽寮御門)       珊底羅サンチラ 虚空蔵菩薩  巳
西面 「談天門」(玉手門。馬寮御門)         因陀羅インダラ 地蔵菩薩   午
   「藻壁門」(佐伯門。西中御門とも)        波夷羅ハイラ  文殊菩薩    未
   「殷富門」(伊福部門。西近衛御門とも)      摩虎羅マゴラ  大威徳明王  申
   「上西門」
北面 「安嘉門」(海犬養門。兵庫寮(司)御門とも)真達羅シンダラ 普賢菩薩  酉
   「偉鑒門」(猪使/猪養門。玄武門とも)     招杜羅チトラ   大日如来   戌
   「達智門」(丹治比門・丹比門とも)         毘羯羅ビガラ  釈迦如来  亥
   「上東門(土御門)」

 いやいや、これにとどまらない。真達羅は仏教に採用されて護法神の帝釈天になり、ガンジス河に住む鰐魚・魚神で、蛇形をして尾に宝玉をおさめるといわれる金毘羅は、金毘羅大将とか金毘羅童子とよばれ、『大般若経』を守護する般若十六善神の一つとして、仏法の守護神となったという。「♪コンピラ舟舟〜」である。

 「宮城(禁門)十二門」「外郭十四門」については、女院号も忘れてはなるまい。もちろん「門院号」に限れば、「朱雀門」「偉鑒門」の二門は該当者なし。
 女院号の初例は上東門院で、始めは外郭十四門に限られたが、1169年にの建春門院以降は宮門その他の門名なども取り入れられたとある。ちなみに、建春門院平滋子(1142 - 1176)は平時信(清盛の舅)の娘で清盛妻の時子の異母姉である。後白河の譲位後の妃で高倉天皇の母、1169年に宣下。次いで建礼門院平徳子(1155 - 1214)は清盛の娘で高倉天皇中宮、安徳天皇母1182年に宣下。
 「禁門十二門」に戻れば、白川法皇の寵愛を受け、その養女として鳥羽天皇の中宮となり、崇徳・後白河両天皇の母となった藤原璋子(1101 - 1145)は、1124年に「待賢門院」院号宣下された。しかし、中宮璋子に代わって鳥羽天皇の寵愛を受けた藤原得子(1117 - 1160)は、近衛天皇の母となり、1149年に「美福門院」を宣下された。

 大河ドラマ「平清盛」での白河上皇=伊東四朗と、鳥羽上皇=三上博史、待賢門院璋子=檀れい、そして美福門院得子=松雪泰子などのドロドロは保元・平治の乱に限らず、稗史絶好の話題! なにしろ鳥羽上皇は、白河法皇によって璋子の生んだ(父親は白河!)崇徳天皇即位のために退位させられたが、美福門院との間に近衛天皇が出来れば、今度は崇徳を退位させ、たった三歳の近衛を即位させた。近衛は夭折したが、待賢門院との子・後白河と、先の崇徳(父はともかく母は同じ待賢門院!)との皇位継承争いから保元の乱は始まる。もっとも待賢門院璋子は保元の乱を見ることなく死去。

<京都観光案内>平安京・朱雀門
http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=6000030

<平城宮跡資料館>復元された平城京の朱雀門
http://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/page/suzaku.html


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2015年01月21日

京都去りがたし3 朱雀大路

 さあ、朱雀大路である。

 平安京の造営はまず宮城(大内裏)から始められ、どこからでも見えるように巨大な大極殿を作り、朱雀門から九条の羅生門まで、街の中心に南北の幹線道路=朱雀大路を通し、両側を柳並木とした。
 平安京−坊条制の道路は、10丈(約30メートル。東西路で言えば、大内裏から発する大路)と8丈(約24メートル)までの5種類の幅を持つ大路と、幅4丈(約12メートル)の小路により、40丈(約120メートル)四方に区画されていた。東西路をみれば、一条大路は幅10丈だが、二条大路は幅17丈で九条大路は幅12丈となっている。しかし、南北路でメインストリートとでも言うべき朱雀大路だけは特別に幅28丈(約85メートル)だったそうな。

◎平安京条坊復元図
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heian/heian03.html

 平城奠都1300年を記念して「朱雀門」が復元されたが、映画『陰陽師』では、それを平安京の朱雀門・朱雀大路として借用したらしい。やけにだだっ広い道を安倍晴明役の野村萬斎と源博雅役の伊藤英明が歩いて行くシーンで「そうなんだ、朱雀大路はこんなに広いのだ!」と時代考証に感心したのを憶えている。

 ちなみに、江戸時代に整備された五街道のうち東海道などは幅5間(約9メートル)しかなく、馬車(戦車:軍用道路も含め)の未発達ゆえに、幹線道路と言えども、平安京の小路よりも狭かった。もっとも平安時代の道路幅は、隋唐のマネであり、「外国の賓客に見せるためのデモンストレーションだった」とする見方もある。

 朱雀大路は何度も述べているように右京衰退によって、都の西のはずれの道になり、大内裏の焼失によって二条通以北の本来、大内裏のあるべきところ(「内野」)を突っ切るように、千本通として北へも延びている。とすれば一条通との交差点あたりが「偉鑒門」(玄武門)か。一応、「大極殿跡」は、朱雀門跡から500メートルほど北(千本通丸太町上ル、か)にある。
 もちろん、「通唄」でこれから順に散策しようと思っている「通り名」は、後世付けられたもので、平安京建設当時は、この朱雀大路と東西端の西京極大路・東京極大路以外は規則的な名称だったということである。
 内裏も転々とし、やっと現在の京都御所の場所(土御門東洞院殿)に落ち着いたと思ったら、南北朝から室町時代を経て応仁の乱以後の戦国時代に突入。豊臣政権による天下統一で、京都−内裏再建の運びとなり、併せて都市改造により、例えば「御土居」を構築し、洛中・洛外を区別したり、散在していた寺院を集め、「寺町通」としたり、既存の街路と街路の間に新たな「通」を開いたり(短冊形の町割り)した。この時に呼び名が変わった街路も多く、「大路」「小路」から「通り」に変わったのもこの頃らしい。

 南北に注目すると、運河(?)とも呼べる人口河川が、堀川小路(堀川)と西堀川小路(西堀川)に並行して流れていた。これは、左京・右京に置かれた二つの市(東市、西市)のためかとも思われる。物流という観点では河川は道路よりも重要であったろう。
 東寺、西寺もそうだが、中華帝国由来の都市計画としてのシンメトリーは、多分好みが分かれるところだろうが、やはり「美しい」。

 右京の地は桂川の形作る湿地帯にあたるため9世紀に入っても宅地化が進まず、平安京創建時から右京地区は整備が進んでおらず寂れたというより放置されたに近い。律令制がほとんど形骸化した10世紀には荒廃して本来京内では禁じられている農地へと転用され、荘園化した。一方、貴族の住む宅地は大内裏に近い右京北部を除いて左京に多く設けられ、さらに東へ東へと発展し、とうとう鴨川を越え市街地が広がった。内裏ですらそうである。白河殿、平家政権の六波羅も鴨東地区である。
 そして京都の南北路の中心は、京都駅開業に対応して、1.5キロメートルほど東の烏丸通に移動した。もっとも道路の広さで言えば堀川通か? 西(端)は西大路通(かつての「野寺小路」か)に、東(端)は鴨川を超えて東大路通に。

 朱雀大路でなく、北へ延びた千本通についてみれば、旧朱雀門を通り抜け、中央官庁たる「朝堂院」の入り口=「応天門」をくぐれば、大極殿がそびえている、という趣向。その北東、つまり右手後ろに「内裏」の「建礼門」がある。千本通は、内裏(内野)を突き抜け「偉鑒門」の北に位置したであろう船岡山(「朱雀大路は船岡山が正面に来るように決められたとも言われる」wikipedia)の西側をやや斜めに北上する。このあたりは、鳥辺山や化野とならぶ葬送の地・紫野−蓮台野であり、鎌倉時代にこの葬送地への道に千本の卒塔婆を建て供養したのが地名の起こりとも言われている。
 手前に千本釈迦堂(大報恩寺。本堂の釈迦堂は国宝)、千本ゑんま堂(引接寺。ここは「縁起」として小野篁があげられているが、また、南北朝時代に建立されたとする紫式部の供養塔もある)があり、その間の東側に釘抜地蔵として有名な石像寺(これまた弘法大師創建とな)がある。さらに七本通一条から移されたとされる蜘蛛塚(源頼光塚。もっともこれは北野天満宮内の観音寺にも)が上品蓮台寺(こちらは聖徳太子開基だ)境内にある。内裏なきあとの朱雀大路の北側は興味深い。

 蓮台野と言えば、吉川英治『宮本武蔵』での吉岡清十郎との決闘の地ではなかったか。井上雄彦『バガボンド』には驚かされたが、映画化やドラマ化は配役さえ間違えなければ、「原作がしっかりしているので面白い」とよく言われるが、井上雄彦のコミック化も破天荒だがそのようだ。

 千本通は光悦寺で名高い鷹峯にまで至っている。光悦寺もさることながら「吉野太夫の墓」に惹かれて、光悦寺から2、300メートル東の常照寺を訪れたことがある。
 大河ドラマの海老蔵武蔵があまりにも酷かったし、米倉涼子の「お通」もミスキャスト。それにしても、小泉今日子=吉野太夫は辛かった。もっとも、この吉野太夫の墓は二代目。武蔵とのエピソードに登場する吉野太夫は初代だそうな。錦之助武蔵の時の岩崎加根子は名脇役である。
https://www.youtube.com/watch?v=DorKrWWbD6c#t=477

一路一会>古い町並みと集落・古都>京都>別冊・京都の路と町家>千本通せんぼんどおり
http://www.ichiro-ichie.com/05koto/kyoto2/02south-noth/a37senbon-dori/senbon-dori01.html

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2014年12月11日

京都去りがたし2 内裏−御所

 “「京都町歩き」は朱雀大路から”などとつぶやいていたが、やはりここは平安京−御所をまず概観しよう。

 大内裏は南北で言えば一条[現在の一条通。京都御苑・京都御所に分断されている路地]から二条[現在の二条通。これまた二条城で分断されている路地]、東西で言えば大宮大路[現在四条以北は二条城で分断された路地]から西大宮大路[路地のような御前通に取って代わられ、大路名消失]に囲まれた場所であった。東西約1.2Km、南北約1.4Km
 一方、内裏は下記↓の地図を見て貰えばわかるように、大内裏の中央東よりの紫宸殿を中心とする内邸部分で、南北約303m、東西約220mの広さ(まぁねおよそ2万坪ですか)。

 1227年(安貞元年)に宮城(大内裏)が焼失してからは内裏は再建されず、里内裏を転々とした。
 里内裏の「里」とは平安京の里坊のことで、「京内に置かれた内裏」という意味である。里とは嫁の実家ではない(笑)。しかし天皇退位後の在所とすることを主な目的として設けられた離宮である後院が仮皇居として用いられたが上皇在所として既に用いられている場合などには、天皇外戚の邸宅などが仮皇居となり、これを里内裏と称した。(とすると「嫁の実家」も当たらずと雖も遠からず、か)
 摂関期にはまだ平安宮内裏が本来の皇居であると認識されており、平安宮内裏が健在であるのに里内裏を皇居とする例はほとんど無かったが、院政期以降になると、平安宮内裏の有無に関わらず里内裏を皇居とする例が一般化したという。

 Wikipediaによれば斯くのごとし。794年(延暦13年=50桓武)平安京を定める。960年(天徳4年=62村上天皇)に内裏焼失、再建されるまで冷泉院を仮の皇居とした。976年(貞元元年=64円融天皇)に内裏が被災し、藤原兼通の邸宅である堀河殿を仮皇居とした。73堀河天皇(1086年11月26日- 1107年7月19日)京都御所となる土御門東洞院殿を即位前に御所としていたことが知られている。1167年(仁安2年=79六条天皇)から短期間、土御門東洞院殿を里内裏として用いる。1177年(安元3年=80高倉天皇)から短期間、土御門東洞院殿を里内裏として用いる。1227年(安貞元年=86後堀河天皇)に大内裏が焼失。内裏は再建されず、里内裏を転々とした。

 さて、内裏として定められた「里内裏」=土御門東洞院殿は、平安京左京北辺四坊二町に所在し(土御門北、東洞院東、正親町南、高倉西)、1町四方の元の屋敷?は権大納言藤原邦綱の邸宅で、その後六条天皇と高倉天皇の里内裏を経て後白河上皇の所有となり、紆余曲折を経て後深草天皇に譲られ、以後は持明院統の治天の君の御所として相伝された。
 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が都を脱出して笠置山に立て籠ると、光厳天皇は土御門東洞院殿を改めて里内裏とした。応永8年(1401年)の火災焼失の後、足利義満が土御門東洞院殿が狭小で「人臣の家」と大差が無いことを問題視して平安宮内裏を模した本格的な内裏の機能を持つ土御門東洞院里内裏を再建した。また安土桃山時代には織田信長と豊臣秀吉によっても整備が施され、関白秀吉によって、天正15年(1588年)までに土御門東洞院殿の陣中(大内裏の区域に見立てて「陣中」と称す)への公家衆屋敷地の総移転(公家町の形成)が実施され、現在の京都御苑の原型がほぼ形成された。さらに江戸時代には慶長(1613年)、寛永、承応、寛文、延宝、宝永(1709年)、寛政(1790年)、安政(1855年)と8回も再建されており、このうち慶長と寛永は旧殿を取り壊しての建て替え、それ以外は火災焼失による再建。以後明治2年(1869年)の東京遷都まで27代の天皇の御所となった。明治維新の東京行幸により、天皇が東京の皇居(旧江戸城)に移ったため、1877年(明治10年)保存され、京都皇宮とも称される、とある。
 現存の内裏は幕末の1855年(安政2年)に平安様式に倣って再建されたもので、安政内裏と呼ばれている。
 ちなみに南朝と呼ばれる事になる大覚寺統の天皇の御所は二条富小路内裏であった。

 さあ、これで朱雀大路に。

平安宮大内裏復元図
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heian/heian02.html
http://homepage1.nifty.com/shiun-sai/sub5_04.html

平安宮内裏復元図
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heian/heian01.html
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2014年11月03日

京都去りがたし1 通唄

 「丸竹夷二押御池、姉三六角蛸錦……」と、うろ覚えで、若い友人と地下鉄の中で暗唱するように口ずさんでいた。「四綾仏高松万五条」まで、なんとか辿りついた。「この後は、どうなんだろう」と言ったら、隣に座っていた上品な高齢の女性が「せったちゃらちゃらうおのたな、六条さんてつ(三哲?)通りすぎ、七条越えれば八、九条、十条東寺でとどめさす」と私たちに続けるように口すさんでくれた。雪駄屋町、鍵屋町、銭屋町、魚棚通……、鍵と銭を「ちゃらちゃら」とは。
 そして「一見さん」にもやさしい京都の「おもてなし」である。感心しきり、である。

 昔、六道珍皇寺を探していたら、松原通はかつての五条通である、と知った。そりゃそうだ、千年余も隔てれば、いくら京都でも変わって行くのは当たり前。とすると「丸竹夷二……」はどうなっているのだろうか。そんな疑問が湧いた。そして「一条は?」と。
 もう一つ、創建当時の平安京と較べるとやたら東に町並みが移動してしまっている。中心の朱雀門、朱雀大路はどうなっている、そんな疑問も浮かんだ。

 ということで、京都の「通(り)」である。

 さて平安京であるが、隋・唐の長安を真似て、平城京を踏襲し、山背(794年=お寺をナクシ=11月8日に山城と改名、21日に遷都)国に建設された東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城。北端中央(一条から二条、大宮大路から西大宮大路)に宮城=大内裏(その内部に内裏=御所、禁裏、大内など=と呼ばれた帝の私的空間がある)を設け、東西南北に大路・小路を配置した。
 この地は、風水に基づく四神相応(東=流水=鴨川=青龍、南=湖沼=巨椋池=朱雀、西=大道=山陰道=白虎、北=山地=船岡山=玄武)とも言われているが、どうやらこの説が定着したのは江戸期のようだ。もっとも青龍門・白虎門はともかく、南面中央の「朱雀門」に対して、北面中央に位置する「偉鑒門」は別名を玄武門とも呼ばれていたので、当時から「四神相応」が観念されていたのだろう。
 もちろんこの風水・四神相応は「陰陽五行説」(木火土金水)に基づいており、方位(東西南北)や色彩(青赤白黒)だけでなく、季節(春夏秋冬)にも対応している。四つしかない、という勿れ。「土」は「中央・黄」であり、各季に「土(用)」が配置されている。青龍・白虎などの霊獣で言うと「黄龍おうりゅう」もしくは「麒麟」となるそうな。
 
 ちなみに、「東」は「春はる」だが、ウチナーグチでは「東」は「アガリ」で、「西」は「イリ」、「北」が「ニシ」である。もちろん「東風吹かば……」の「東風」の「コチ」は「東風平こちんだ」などに残る。「南」は「ヘー(フェー)」、「南風」は「フェーカジ」とも「ハエ」とも、「南風原ハエバル」である。

 本来の平安京の北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅のやや南の九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたる。西限の西京極大路は推定するしかない。JR嵯峨野線花園駅や阪急京都線西京極駅を南北に結んだ線(概ね現在の葛野大路通付近だが、これは西京極大路の東隣の「無差小路」か)と言われている。
 もっとも、東へ発展してゆくのと併行して、平安時代後期になると、内裏が消滅した(朱雀門以北の旧大内裏の地域は「内野」と呼ばれた)こともあって、都域は北へ広がり、街路も北進した。これが朱雀大路の北進として今につながる、千本通である。鎌倉時代にはすでに「千本通」と呼ばれるようになっていた。

 内裏は平安期から火事などで焼失、さらに戦乱などによって荒廃したために、天皇外戚の邸宅などが仮皇居(里内裏)となり、院政期以降になると、平安宮内裏の有無に関わらず里内裏を皇居とする例が一般化したらしい。土御門東洞院内裏は、この里内裏の一つで、六条天皇と高倉天皇の里内裏を経て後白河上皇の所有となり、その後、承久の乱後紆余曲折を経て後深草天皇に譲られ、いわゆる持明院統の御所となり、足利幕府が擁立した光厳天皇(北朝初代)は土御門東洞院殿を改めて里内裏とした。これが現在の京都御所の元となった。現存する建物は幕末の1855年(安政2年)、平安様式に倣って再建されたもので安政内裏とも呼ばれた。

 なお通唄が、丸太町通から始まっているのは、現在の京都御所(内裏)の南面に面しているのが丸太町通であることに依っているのではないか。ある意味で丸太町がかつての二条大路に当たっている。とすれば御所北面の通りが今出川通りで一条大路に擬せられる(と勝手に思っている)。

 Wikipediaによれば、10世紀初期の『延喜式』においては、朱雀大路を除く他の大路が8丈(約24m)、小路は4丈(約12m)と決められていた。そして固有の街路名は「朱雀大路」が見えるだけで、外周を「東極大路」、「南極大路」などと示しているのみであるという。通り(大路小路)が固有の名称を持つ時期は定かではなく、自然発生的に生じたと考えられるが、10世紀後半には、町尻小路・町口小路、室町小路、油小路、具足小路(錦小路)、綾小路、塩小路などの名称が用いられ、とある。そして戦国時代末期には、現在使われる「〜通り(とおり)」という表現で呼ばれるようになり、現在にも伝わる新しい名称が多く生まれ、近世に掛けて定着していった。また、この時期、京都の町割に大きな変更を行ったのが、太閤秀吉である。御土居を築造し、寺町通・室町通間及び堀川通以西で半町ごとに新しい街路を南北に通す、いわゆる天正の地割を行った。

 しかし、平安京の「通」は、なんと言っても南北(子午線)に貫く「朱雀大路」である。宮城たる大内裏の正門として朱雀門があり、朱雀大路の南端、すなわち九条通との交差点が羅城門である。約4キロメートルの直線で、道幅はなんと幅28丈(約85メートル)もあったそうな。

 ということで「京都町歩き」は「京通唄プロローグ」として、朱雀大路から(笑)。

京都の通り歌【初音ミク】
http://www.youtube.com/watch?v=cYdB3iFBFic&feature=related

京都・東西の通り名の歌「 丸竹夷二…… 」 
http://blogs.yahoo.co.jp/masatake_ko/GALLERY/show_image.html?id=46427639&no=2





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2009年10月15日

瀬戸内寂聴

もう、過去の人ですかね。
私は、この人の本はほとんど読んだことがありませんでした。
でも、ずっと気になっていていた。
というか、何か惹かれるものがありました。

というわけで、古本のたぐいですが、暇つぶしに二冊。
もちろん瀬戸内晴美といえば「夏の終り」ですが
もう読みませんよ、ということで、「古都旅情」。
もう一冊は「嵯峨野より」。

どうしても、京都ですね。
共鳴してしまいそうなほど京都です。
posted by 風游 at 22:15| 沖縄 ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | 京都 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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